2025-02-05

絆と意味と質量

今年の漢字は「絆」ということになった。
そして、このほどヒッグス粒子が発見される可能性が高まったという報道に接した。門外漢の私としては何か分かりやすい説明がないものかと探していたが、この長谷川さんの説明が素人には非常にわかりやすかった。
そこで、これを見て感じたこと。
質量の生まれる過程にはヒッグス粒子がかかわっているようだが、その経緯は対称性の破れにあるそうでマンガの記述が秀逸。以下その記述。
物理学者がたくさん集まったパーティー会場で、人々は近くの人々と静かにおしゃべりをしている。
• 物理学者がヒッグス粒子に対応している。おしゃべりが、相互作用に相当し、起こったり起こらなかったりしている。
パーティー会場に高名な物理学者が入って来ると、周りに人々が集まってくる。高名な物理学者は、動きにくくなる。
•高名な物理学者が素粒子に対応。
•動きにくくなる→質量を持った。
パーティ会場に「噂」が流れる。「噂」の周りに人集りができる。人集りは動きにくくなる。
ヒッグス粒子が自分で集まり(自己相互作用)、質量を持つようになる。
真空は、何もない空間ではなく、ヒッグス粒子が満ち溢れている。
• 素粒子は、ヒッグス粒子と相互作用することによって、抵抗力を受ける。
→ 質量を持った!!
つい先日読了した小坂井敏晶「民族という虚構」の記述とのアナロジーがおもしろい。
以下その記述。(219ページ)
間は音声の単なる欠如ではなく、各音声は孤立した音声を持たない。個々の音声を変質させる力としての間が作用して初めて、音楽や芝居という複雑な意味世界が成立する。同様に、各個人が自律的に完結し、外に対して閉じた存在であったならば、個人をいくら集めてみたところで共同体は生まれ得ない。人間が本質的に欠如を内在する関係態だからこそ、あるいは他の言い方をするならば、人間には本質なるものがそもそも存在しないからこそ、他の生物とは比べものにならない複雑かつ多様な共同体が成立する。欠如や不完全を否定的角度から捉えるのはやめよう。不足のおかげで運動が生まれ、変化が可能になる。この章では、集団責任が依存する論理の検討から始め、共同体の絆は契約のような合理的発想では説明できないことを明らかにした。